急成長を遂げる新興企業やベンチャー企業が必ずと言っていいほど直面するのが、ビジネスの急激な拡張に組織やシステムが対応しきれず、経営に混乱を来たしてしまう事態だ。
バックオフィスのシステムや体制が未成熟なまま事業規模だけが急激に拡大していった結果、組織として空中分解してしまうケースは枚挙にいとまがない。
ではこうした事態を未然に防いで、スタートアップ企業がエンタープライズへと成長する軌道に順調に乗るためには、どのような点に考慮する必要があるのか——。
まさにこの点に早くから着目し、人事マスタデータベースの整備を中心に将来の成長に備えたシステム整備の布石を打ってきたのが、クラウド型ビジネスチャットツール「Chatwork」の開発提供元として急成長を遂げているChatwork株式会社だ。
同社は一体どのような課題を抱え、そしてどのように人事マスタデータベース周りの仕組みを変えることでそれらを解決しようとしているのか。
2023年9月13日、AnityA・Darsana主催のイベント「『エンタープライズの壁』を越えるためのIT基盤と組織作りとは システムがカオスになる前にすべきこと」に登壇したChatwork コーポレート本部 CSE部の須藤裕嗣氏と冨田航氏が、自社の取り組みを紹介した。
会社の急成長に伴いスプレッドシートの人事DB運用に限界が
Chatworkは2019年から2023年の4年間で売り上げは2倍以上、従業員数は4倍以上と急速な成長を続けているが、その過程でいわば「成長痛」とでもいうべきさまざまな課題が持ち上がってきた。特にIT面における課題について、須藤氏は次のように説明する。
「事業部門から情報システム部門に対する要望が積みあがって処理しきれない。システムが複雑化して、保守工数が増える一方。システムでカバーしきれない作業を人手で行うことが多くなり、オペレーションミスも増えてくる。会社が急成長を遂げる過程で、こうしたさまざまな課題が持ち上がってきました」
そこでこうした課題を解決するべく、須藤氏は2021年にAnityAとコンサルティング契約を締結し、代表取締役の中野仁氏から助言を得ながらシステム戦略の根本的な練り直しに着手することになった。まず大きなテーマとして掲げたのが「スケール」と「モニタリング」を重視した戦略作りだった。
「将来的な複数事業・海外事業の展開を視野に入れ、事業規模の拡大に柔軟に対応できるケーラビリティを備えること。そして経営判断のために必要な情報が把握でき、データを使って統制・PDCA改善ができるモニタリングの機能を備えること。こうした特性を備えたITインフラを目指すことにしました」(須藤氏)
こうしたITインフラを構築するために必要な取り組みとして、大きく2つを掲げた。1つが「一貫性のある方針」と「設計(アーキテクチャ)」を立てること。そしてもう1つが、それらを実現、運用、改善し続けられる体制を構築して維持していくことだった。
一貫性のある方針としては、具体的に「ルールやシステムを極力シンプル化」「自動化・仕組化」「可視化・標準化」という3ステップの方針を立てた。そしてこれらを実現するためには、何よりもまずマスタデータベースの整備が不可欠であり、中でも人事マスタデータベースの整備は待ったなしの状態だった。
一方、設計(アーキテクチャ)としては、当初はWorkday、ServicenowといったグローバルスタンダードのSaaSサービスを使ったアーキテクチャの導入を検討もしていたが、中野氏の助言に従い当初の予定を変更したという。
「WorkdayやServicenowなどを使ったグローバルのデファクト構成は運用が大変で、弊社のような規模の会社の手に余るため、まずは身の丈に合った規模で始めることにしました。具体的にはID統合と人事データベース連携から始めて、次に事業系との融合、そしてその後にグローバルのデファクト構成への乗り換えをあらためて検討するという3ステップに分けてバージョンアップしていくことにしました」
「データロックイン」を避けるためのアーキテクチャ
まずは第1ステップとして、Workday以外の仕組みを用いて、人事データベースをあらためて構築し直すことから始めることにした。ちなみにそれまでの人事データベースは、Google Sheetsを使って構築されていた。必要な情報は十分網羅されてはいたものの、手動のメンテナンスの手間や変更ミス、組織のツリー構造が表現しずらい、会社ごとに分けてシートを管理していたためグループ全体での可視化が難しいといった課題を抱えていた。
そこであらためて人事データベースを構築し直すことになったが、その設計コンセプトとしてはアプリケーションベンダーによってデータがロックインしてしまう「データロックイン」を避け、人事データを常に自社でコントロールできる構成を目指すことにした。
そのために採用したのが、アプリケーションの手前に内製の中間データベースを設け、ここを「データハブ」として位置付けるアーキテクチャだった。データをアプリケーションだけでなく、その外部の中間データベースにも配置しておくことで、万が一アプリケーションを乗せ換えることになってもデータを引き継げるような構成とした。
「AnityAの過去のセミナーで楽天さんの事例が紹介されていたのですが、そこで採用されていた中間データベースの構成を参考にしました。こうした構成にしておくことで人事データを自社でコントロール可能な状態にしておき、アプリケーションベンダーにロックインされる事態を避けることができます」(須藤氏)
また中間データベースだけでなく、HR Coreの機能も当初は内製することも検討したが、これも「HR Coreの機能は一見すると簡単そうに見えるが、いざ内製するとなるとかなりの手間やリスクを強いられるので避けた方がよい」という中野氏の助言に従い、SaaSアプリケーションを利用することにした。
SaaSアプリケーションの選定に当たっては、「1000人規模」「グループ会社5社ぐらい」「グローバル企業の可能性あり」といった要件に合致するものを模索した結果、最終的には株式会社イエソドが提供する「YESODディレクトリサービス」を採用することにした。
「弊社が掲げるさまざまな要件をすべて満たす製品は極めて少なく、その1つがYESODでした。またサポート対応が非常に良かった点や、弊社の改善要望に対する開発スピードも極めて速かった点も採用の決め手になりました」(須藤氏)
新人事データベースシステムの設計・アーキテクチャ
スプレッドシートを用いて管理していたもともとの人事データベースは、大きく分けて「当月と過去の履歴が見られる組織図および人事発令表」「来月分の組織図および人事発令表」「人事データベース」の3つに分かれていた。これらの機能をYESODをマスターオブマスタにすることで置き換え、連携システムをAWS環境上で内製する中間データベースとするよう設計した。
その上で、一般社員はYESOD上で当月以前分の組織図のみを閲覧可能とし、HRBPはそれに加えて未来分も閲覧可能、さらに労務部門はすべてのデータを参照・編集可能とし、従業員のロールごとにアクセス権限を制御することにした。また中間データベースを通してOktaと連携させ、従業員情報の新規作成や削除、異動などの情報をOktaに反映させることで各種サービスに対するアクセス権限の変更作業を自動化することにした。
冨田氏によれば、現時点ではまだ旧人事データベースと中間データベースを並行稼働している段階だという。
「最終的には旧人事データベースを廃止して中間データベースのみの運用とし、さらにOkta以外にもMoneyForwardやSmartHRなどさまざまなSaaSサービスと連携させることを予定しています。またYESODのAPIを介してデータを取得し、中間データベースに保存することでデータロックインを避ける構成としています」
なお、YESODで管理するデータの範囲は、第1ステップとしてシステムアカウント連携に関するもののみに限定している。具体的には個々の従業員の「個人属性」「会社属性」「ID情報」「組織属性」「事業所属性」にかかわる情報を管理することとした。またこれらのデータの管掌部門は基本的には労務部門だが、メールアドレスや各種SaaSのIDなどが含まれるID情報については情報システム部門の管理下に置くこととした。
人事マスタデータベース整備による効果と今後の展望
こうした新たな仕組みを導入することで、これまでスプレッドシートで行ってきた人事関連のさまざまな業務が効率化される見込みだという。例えば従業員が入社した際には、人事データベースに新たに情報を登録したりOktaアカウントを発行したり、あるいは他システムのアカウントを発行したりする作業に約115分かかっていた。
現在は旧データベースと新システムの並行稼働を行っているため、これにさらに追加の作業が加わり約125分かかっているが、最終的に人事データベースの運用が廃止された暁には、従業員の情報をSmartHRに登録すればその内容が自動的にYESODに登録され、その内容が中間データベースに連携され、さらにOktaに反映されて自動で各種サービスのアカウントが自動発行されるようになる。これによって従業員1人当たりの作業時間は45分まで短縮できる予定だ。
また退職処理も同じく約95分から約50分に、組織変更に伴う作業時間も約95分から約40分に短縮できる予定だという。
なお、中間データベースとYESODの運用を開始した後は、これまでグループ会社ごとにスプレッドシートで個別に作成していた組織図を、YESOD上でグループ全体の組織図を一元的に管理できるようになった。またYESODは時系列で組織情報や所属情報を登録・管理できるため、任意の日付を指定してその時点での組織図を参照することが可能になった。
人事発令表も同様に、これまでグループ会社ごとにスプレッドシートで作成・管理されていたが、YESOD導入後はこれをグループ全体で一元管理できるようになり、かつ「クイックビュー機能」により日付を指定して参照することができるようになった。
なおこれら一連の仕組みは、あくまでも人事マスタデータベースの進化の一過程に過ぎず、今後も段階的に仕組みを高度化していく予定だという。
「第1ステップの人事マスタデータベース整備と第2ステップのシステムアカウント情報の管理を終え、現在は第3ステップの各種SaaSとの連携による自動化に取り組んでいるところです。今後はさらに第4ステップとしてDWHへデータを蓄積し、さらに最終の第5ステップのピープルアナリティクスでのデータ活用を目指していきたいと考えています」(冨田氏)
「時系列の人・組織管理」を可能にするYESODディレクトリサービス
なおChaworkが今回採用したYESODディレクトリサービスを開発・提供する株式会社イエソドは、2018年に設立された新興IT企業。「企業の人・組織・情報にまつわる非効率をなくす」というビジョンを掲げ、YESODディレクトリサービスの提供とともに、アカウント管理サービス「YESODアカウントコントロール」の開発も進めており、近日中にリリース予定となっている。
同社の立ち上げメンバーの1人であり、現在ビジネス統括取締役を務める竹内氏は、YESODディレクトリサービスの開発を思い立った背景について次のように述べる。
「企業が個別最適でシステムを導入していくと、データはバケツリレー的に処理され、情報のサイロ化が進んでしまいます。それでも何とか業務は回せるのですが、こうしたシステムは組織拡大に伴う変化に脆弱で、業務フローのスパゲッティ化と属人化が不可逆的に進みます」
こうした事態に陥ることを回避するためには、部門横断の全体最適を踏まえた業務システムのアーキテクチャ再設計が必要であり、より具体的にはマスタデータベースに情報を集約・正規化・蓄積して、信頼できる情報源を起点に業務を再構築することで「変化に強い管理部門」を作ることが肝要だ。
これを実現するためにYESODディレクトリサービスが提供するのが、過去・現在・未来の情報を“時系列”に格納・出力できる「人・組織マスタ」の機能だ。単にその時点での静的な情報を管理するだけでなく、「データ・項目・時間」という3次元でデータをとらえられる独自のデータモデルを採用することで、従業員のライフサイクルに沿って属性情報を時系列に蓄積・参照できるようになっている。
これによって、ある時点とある時点の「人事データの差分」を自在に抽出できるようになる。例えば「来週〜再来週の間に入社・退職する人のリスト」「来月の組織図」「来月に異動をする人の移動元と移動先部署のリスト」といったように、人や組織の変化を効率的に捉えられるようになり、より効果的な人事データの活用が可能になるという。
SaaSアカウント管理にまつわる課題を解決するYESODアカウントコントロール
また近日リリース予定のYESODアカウントコントロールでは、主にSaaSサービスのアカウント管理にまつわるさまざまな課題を解決できるソリューションを提供するという。
「組織が拡大し、業務で利用されるSaaSの数が増大するにつれ、それぞれで利用されるアカウントおよびその権限の管理の課題が顕在化してきます。例えば従業員の入退社や組織変更といった人事イベントが発生するたびに、大量のSaaSアカウントの登録・削除作業が発生し、そのために人事部門では膨大な労力を強いられます」
あるいはアカウントの権限管理が適切に行われていなかったがために、経営にかかわる機密情報が全社員に向けて公開されてしまっていたり、退社した従業員のアカウントが削除されないまま残っていたためにサイバー攻撃に悪用され、情報漏洩インシデントを引き起こしてしまったりといったように、セキュリティリスクの増大につながる危険性もある。
こうしたリスクを低減するためには、これまで手作業に頼っていたアカウント管理作業を自動化したり、複雑化する一方の人・組織・ID/権限の情報管理を簡素化する必要がある。より具体的には、必要最小限の権限を割り当てるという「IDガバナンスにおけるゼロトラスト」の原則に則り、“人”ではなく“組織・役割(職務権限規程)”に紐づけた形でアカウント・権限管理を行うことが重要だ。
そこでYESODアカウントコントロールでは、入退社や異動、組織変更といった人事の各種ライフサイクルに応じたアカウント管理の作業を“タスク”として定義し、その情報を各種SaaSサービスと連携することで各種のアカウント管理作業を自動化する。
「こうした仕組みを活用しながら、例えば本来付与されるべきではない人にアカウントが付与されていたり、退職した従業員のアカウントが残っているような状況を検知して修正を施すとともに、社内ルールを都度見直していく。こうした取り組みを通じて企業のガバナンスを構築していくことが大事だと考えています」(竹内氏)
※記事中の施策に関するご相談、お問い合わせはこちらのアンケートフォームをご利用ください。Darsanaと運営母体のITコンサル会社AnityAを通じて、施策を実施したユーザー企業、ITベンダー、パートナーの担当者にお取り次ぎいたします。