なぜkubell(チャットワーク)の「人事マスタ統合」はうまくいったのか——組織設計の観点から見てみると


 少子高齢化がますます進む中、多くの企業が人材不足に悩まされる一方で、「人的資本経営」というキーワードが注目を集めていることからも分かる通り、人材の採用・活用戦略が企業価値を大きく左右するようになってきた。


 こうした背景から、近年、人事戦略の見直しを急ぐ企業が増えているが、これを下支えするための情報システムや組織体制、採用戦略が脆弱であるばかりになかなか成果を生み出せないケースが少なくない。


 特に情報システムに関しては、旧来の労務管理や給与計算の用途に特化した人事システムだけでは戦略的な人事施策の遂行に必要な情報をカバーできず、また複数のシステムに重要な人事データが散在してしまっているため、なかなか戦略的な人事データ活用に着手できずにいる企業が多い。


 そんな中、より高度な人事戦略を下支えするための人事システムや人事データベースの構築に乗り出す企業が出てきている。それに伴い、「HRIS」と呼ばれる「人事業務と情報システムの双方に精通した技術者」の存在もクローズアップされつつある。


 ビジネスチャットサービス「Chatwork」の開発・提供元として広く知られる株式会社kubellも、こうした新たな人事システムの構築に乗り出した企業の1社だ。いわゆる「戦略人事」の用途を前提とした人事マスタを新たに構築したほか、情報システム部門の組織体制や採用戦略を段階的に強化していくことで、経営により直接的に寄与できるバックオフィス業務の在り方を模索してきたという。


 2024年6月13日、AnityA・Darsana主催のイベント「『人事マスタ不在問題』に困らないIT組織のつくり方 Chatworkに聞く情シスの組織設計と人材採用」が開催され、kubellのキーパーソンが人事マスタ統合を成功させるための組織設計と採用戦略を紹介した。

メルカリの事例に感銘を受けて自社の情シスを「CSE部」に改組

 2004年に設立されたkubellは、創業後しばらくの間はまだ企業規模も小さかったこともあり、情報システムの機能に特化した組織を設けずに、総務部門を中心にさまざまな部署が協力し合いながら社内の情報システムの運用管理業務を分担してきた。


 しかし企業規模が拡大するにつれこうした体制でのシステム運用に限界が見え始め、また将来の上場を見据えてITガバナンスの強化を図る必要性から、2016年に経営企画室の配下に情報システムの専任要員を配し、2018年には晴れて専任の情報システム部門として独立することになった。


 当時情報システム部門の責任者を務めていたのが、現在は同社のセキュリティ部門の責任者を務める須藤裕嗣氏だ。同氏によれば、部門立ち上げ当初はさまざまな面で苦労が絶えなかったという。


 「私自身プロダクトエンジニアの出身で情シスの経験がなかったため、当初はなかなか勝手が分からず、エンジニアとしてのやりがいも見出せずにいました。人手も明らかに足りていなかったことから、正直行き詰まり感を感じていました」(須藤氏)


 そんな中で大きな転機になったのが、たまたま目にしたメルカリのオウンドメディアの記事だった。そこではメルカリ社内でエンジニアたちが高い技術力を結集して、バックオフィス業務の改革を進めている様子が描かれていた。なおこうした取り組みを進める部署のことを、メルカリでは「CSE(Corporate Solution Engineering)部」と称している。この組織のコンセプトと活動内容に大いに共感を覚えた須藤氏は、これに倣って情報システム部門を「CSE部」と改称するとともに、エンジニアリング力を生かして経営課題を解決できる組織の実現を目指し、早速組織改革に着手した。

 まずは採用活動を強化して人員を増強するとともに、部内を「コーポレートITチーム」「開発チーム」「IT統制チーム」の3つのチームに分け、それまで須藤氏に集中していたマネジメント業務を各チームのリーダーに権限移譲した。さらにはコーポレートITチームの内部を、既存システムの運用や改修を担う「運用チーム」と、新たな取り組みで革新を目指す「革新チーム」の2つに分け、それぞれの役割分担を明確化することで各メンバーがプロジェクトに専念できる体制を構築した。

採用プロセスを徹底的に磨き続けることで優れた人材を獲得

 なお人事システムや会計システムを担当するメンバーについては、情報システムだけでなく人事や会計の業務に精通している必要があったが、両方のスキルを併せ持つ人材は求人市場でも極めてレアなため、採用活動にはかなりの時間と手間をかけたという。


 その甲斐あって、人事と会計それぞれの分野において豊富な経験と知見を有する人材を採用することができたが、このように優秀な人材を採用するために須藤氏は人事部門と密接に連携しながら、さまざまな施策を講じたという。


 「採用候補者には、会社全体の事業戦略をできる限り熱意を持って伝えるようにしました。そうすると、話の内容に共感してくれる人と、逆に『ポカン』としてしまう人の両極端に見事に分かれます。個人的に情シス人材は『会社の文化を作る人』だと思っていますから、やはり会社の事業に興味を持ってくれる人に入ってほしいと考えていました」(須藤氏)

 また、これとあわせて、部門の戦略も丁寧に説明したという。「会社全体の戦略」と「CSE部としての戦略」がどのように連動しており、また部門が抱えている課題をどのようなプロジェクトやタスクを通じて解決しようとしているかについても事細かく説明した。

 さらには自社にとって都合のよい人材を採用するだけでなく、入社してくれる人もkubellで働くことを通じて自身のキャリアを伸ばし、人材市場での価値を高めてもらえるよう、社内で導入する技術は世間のトレンドに沿ったものを選定するようにした。

 面接に関しても、応募者に普段の仕事ぶりや職場の雰囲気をつかんでもらい、入社後のミスマッチを極力避けるために、カジュアル面接や体験入社の手法を新たに取り入れた。

 加えて、「強い人から採る」という方針も徹底した。たとえポテンシャルの高いジュニアレベルの人材を採用できたとしても、じっくり時間をかけて育成できるほど自社組織がまだ成熟していないという判断から、シニアレベル以上の人材を優先して採用するようにした。

 「結局は『徹底的に採用プロセスを磨き続ける』ことに尽きるかと思います。人事部門と密に連携しながら、これまでの採用プロセスを振り返って改善を繰り返すという泥臭い活動を粘り強く続けたからこそ、結果的に優れた人材を採用でき、今の体制を作り上げることができたと考えています」(須藤氏)

すべてのデータ・台帳の起点となる人事DBシステムの開発に乗り出す

 こうした採用活動を通じて新たに獲得できた人材の1人に、現在CSE部のマネージャーを務める和田正人氏がいる。2022年に須藤氏がIT統制・セキュリティ部門の業務に専念することに伴い、和田氏が新たにCSE部のマネージャーに就任して引き続き同部の組織運営に当たることとなった。


 同氏は就任後、CSE部が重点的に取り組むべきテーマとして「スケール」と「モニタリング」を打ち出して、将来の企業規模拡大に耐え得る情報システムの構築・運用と、データを基に意思決定を行うための仕組み作りに特に力を入れていく方向性を示した。


 そのために最も重要な施策として位置付けていたのが、「人事DBシステムの構築」だったという。

 「組織が拡大すると自ずと部署や人の動きが多くなり、組織全体の現状を正確に把握しにくくなってしまいます。また業務が多様化・複雑化して個別最適化が進むと、さまざまな観点の台帳が社内に散在するようになり、どれが本当に正しいデータなのか分からなくなってしまいます。こうなることを避けるために、すべてのデータ・台帳の起点となる『SSoT(Single Source of Truth:信頼できる唯一の情報源)』としての人事DBシステムを新たに構築することにしました」(和田氏)


 人事部門とともに入退社をはじめとするさまざまな人事業務プロセスを整理し、必要な情報を洗い出した上で、イエソドが開発・提供するSaaS型人事システム「YESODディレクトリサービス」の上で人事マスタを構築した。さらにそのバックエンドに、他の人事系システムやID管理サービスとデータを連携させるための「HRデータハブ」の仕組みを内製開発した。

 この一連のシステムを設計・開発する上では、2023年にHRISの専門家を新たに採用できたことが非常に大きかったという。


 またこの人事DBシステムと並んで重要なシステムと位置付けていたのが、「ワークフローシステム」だった。


 「会社が大きくなると申請対象が多様化したり、承認プロセスが複雑化してきます。また単純に人が増えれば申請件数も多くなりますから、やはりワーフクローシステムによる申請・承認プロセスの電子化・自動化が不可欠でした。そこで新たにワークフローシステムを導入し、API経由で周辺システムと連携させることでさまざまな部門の業務改善に取り組んできました」(和田氏)

組織の価値をさらに高めるべく活動内容を定量的に可視化

 2024年度からは人事システムに加えて、財務会計周りの基幹システムの強化にも乗り出した。会計と情報システムの双方に明るい人材を新たに採用し、このメンバーをリーダーに据えた「BSE(Business Solution Engineering)チーム」を新たに立ち上げた。このチームを新設した目的について、和田氏は次のように説明する。


 「今後さらに企業規模を拡大し事業を多様化していくためには、売上や支出処理を含む基幹業務領域を強化する必要があると考えました。そこで主にお金周りの情報を集約・可視化し、経営のスピーディーな意思決定に寄与できるモニタリングの仕組みや、企業規模の急拡大に耐え得るスケーラブルな仕組みを整備するための組織を新たに設けることにしました」(和田氏)

 なお、今後はCSE部の存在価値をさらに高めるべく、これまでの活動の成果をより広範な業務領域に適用させていきたいと同氏は語る。


 「採用活動がうまくいき、スキルの高いメンバーを一定数確保できたので、情報システム部門としてはかなり人数的に恵まれた環境にあると思います。今後はこの充実した体制を生かして、人事DBシステムとワークフローシステムの導入効果をさらに多くの部署に波及させていきたいと考えています」(和田氏)


 さらには、現在の充実した体制を今後も維持・拡大していくためには、活動の成果を経営陣にきちんと説明して納得感を得る必要がある。そのために今後は、CSE部の業務の内容や成果を定量的に数値化する取り組みにも力を入れていきたいと同氏は抱負を語る。


 「人員のさらなる強化の必要性を客観的に説明するために、戦略を実現するために必要なスキルを『スキルマップ』として定義し、今後採用で補強すべきスキルを明確化していきます。またCSE部の業務負荷を定量的に計測・可視化することで、適切な人員構成と採用計画をデータを基にきちんと示せるようにしたいとも考えています」(和田氏)

過去・現在・未来に渡り人と組織の情報を管理できる「YESODディレクトリサービス」

 なお、本イベントでは、同社が人事DBシステムのHRコアとして採用した「YESODディレクトリサービス」の製品紹介も行われた。同製品は、企業の従業員や組織に関するさまざまな情報を一元的に管理できるクラウドサービス。従業員一人一人の情報を事細かく網羅できるよう、豊富なデータ項目が標準機能で用意しているが、必要に応じてこれらを柔軟に拡張・カスタマイズできる点に大きな特徴があるという。

 「項目の数を増やせたり、カテゴリをカスタマイズできたり、あるいは入力制御を個別に指定できるなど、柔軟な拡張性・カスタマイズ性を備えているのがYESODディレクトリサービスの大きな特徴です。また日本企業に特有の『兼務』にも対応できるのも、外資系の製品・サービスにはない強みの1つだと言えます」


 こう語るのは、同製品の開発元である株式会社イエソドの取締役COOを務める竹内伸次氏。また同氏によれば、人や組織の情報を「時系列で持てる」点が、競合製品にはないYESODディレクトリサービスの最大の特徴だという。具体的には過去の特定の時点まで遡って、その時点での人や組織の状態を自由に参照できる。また未来の日付で従業員や組織の情報を設定する機能も備わっている。

 これらの機能を活用することで、「この期間中に誰がいつどの組織に異動したか」「この期間中に誰が入社するか・したか」「このタイミングでどの従業員の雇用形態や役職がどう変わるか」といったように、人や組織のダイナミックな「動き」を過去・現在・未来に渡って自在に参照できるのが同製品の大きな特徴だという。

人事マスタ構築プロジェクトは「全社課題型」と「部門主導型」の2タイプ

 なおイエソドはYESODディレクトリサービスのほかにも、人事イベントを起点にアカウント管理を自動化するIGAソリューション「YESODアカウントコントロール」も提供している。またこれらのサービスを提供するだけでなく、構想策定から導入支援、運用定着までをトータルで支援するコンサルティングサービスも提供している。


 これらの活動を通じてさまざまな企業の人事マスタ構築プロジェクトに関わってきた竹内氏によれば、プロジェクトの進め方には大きく分けて「全社課題型」と「部門主導型」の2タイプがあるという。全社課題型とはその名の通り、人事マスタ構築プロジェクトを全社課題として捉え、経営のトップダウンによる全社横断型の体制の下で遂行するというもの。

 「全社課題型は、経営から人事、総務、情シス、管理部門と社内のあらゆる部門を巻き込んだ一大プロジェクトを組成して進めていくやり方です。これによって会社全体で人事マスタの重要性を認識し、その理解を深めることができますが、その半面部門間の調整事が多くなるためプロジェクトが長期化してしまったり、経営に対して大規模プロジェクトの正当性を説明するのに苦労するといったデメリットもあります」


 一方部門主導型の方は、特定の部門が人事マスタ構築をリードするというやり方。実際には情報システム部門が起点となることが大半で、まずは自分たちの業務を効率化するための人事マスタを構築し、その運用が軌道に乗った後に他の部門を徐々に巻き込みながら全社レベルの人事マスタ活用へと発展させていくというやり方だ。


 こちらは全社課題型とは異なり、スモールスタートで素早く立ち上げることができ、また部門間の調整が不要なため短期間のうちに構築を終えることができる。しかしその一方でスコープ範囲が狭くなりがちで、かつ構築・運用ノウハウが特定のキーマンに偏りがちになるという欠点もあり、そのキーマンが熱意を失ってしまった途端にプロジェクト全体が頓挫してしまうケースも多く見られるという。


 「いずれの方法をとるにせよ、人事マスタを構築するためには、人事と情報システムの双方に精通したHRIS人材の存在がカギを握ります。とはいえ、そのような人材は、めったに採用市場には出てきませんから、場合によってはコンサルティング会社など第三者の知見を借りることも検討するべきだと思います」(竹内氏)

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後藤祥子記事一覧

ITmediaエンタープライズの担当編集長を経て独立。現在はエンタープライズITの変革者に伴走するメディア「Darsana」の編集長として、変革者へのインタビュー、イベント企画、コミュニティ運営を手掛けている。ITとビジネスをつなぐ役割を担っているCIO、IT部門長へのインタビュー多数。モットーは、「変化の時代に正しい選択をするのに役立つ情報を発信すること」

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