「足りない戦力」「採りたい人材」の解像度を上げるために欠かせないのは マスタデータ活用に困らないIT組織の作り方


 2024年6月13日、AnityA主催のイベント「『人事マスタ不在問題』に困らないIT組織のつくり方 Chatworkに聞く情シスの組織設計と人材採用」が開催された。


 本イベントの前半では、ビジネスチャットサービス「Chatwork」の開発・提供元であるkubell(チャットワーク)の情報システム部門がこれまで組織改革や人材採用、さらにはデータ利活用の肝とも言える「人事マスタ整備」にどのように取り組んできたかを、元マネジャーの須藤裕嗣氏と現マネジャーの和田正人氏が解説した。


 また、同社がHRコアとして採用したSaaS型人事システム「YESODディレクトリサービス」の開発元であるイエソドの竹内伸次氏は、人事マスタ構築プロジェクトを進める上でのコツを同じくプレゼンテーションした。


 イベントの後半では、これらの内容を基に、須藤氏、和田氏、竹内氏にAnityA 代表取締役の中野仁を加えた4人で、情報システム部門の組織改革や人材戦略、さらには人事マスタ構築プロジェクトの重要性やその難しさなどについてディスカッションが繰り広げられた。

事業の急成長に耐え得るコーポレート部門の組織作りを

中野氏: 私は2021年からコンサルタントとして須藤さんや和田さんの仕事のお手伝いをしてきたので、お二人のプレゼンテーションの内容をとても懐かしく思いながら聞いていました。私が初めてkubellさんのCSE部の組織体制を教えてもらったときに最も印象的だったのは、やはり自前の開発チームを持っている点でした。これはやはり、CSE部設立の発起人でもあった須藤さんが、もともと開発系のエンジニアだったからなのでしょうか?


須藤氏: そうですね。プレゼンテーションでもお話しした通り、私自身はそれまでずっと開発の仕事をしてきたこともあり、情シスに異動になった当初はいろいろ行き詰りを感じていました。


 そこで大きな転機となったのが、メルカリさんのCSE部の事例を知ったことでした。この事例に感銘を受けた結果、自社の情シスもCSE部と改称して、「技術の力で会社を改革していこう」という決意を新たにしました。開発チームを設けたのも、こうした考えからでした。

中野氏: 私はこれまでコンサルタントとして数多くのスタートアップ企業を見てきたのですが、多くの会社が上場前後のタイミングで事業の成長に組織体制が付いていけずに瓦解してしまうんですね。でもkubellさんは、スタートアップであるにも関わらず人事や財務といったコーポレート部門のパフォーマンスが非常に高くて、かつ組織改革やシステム導入にも協力的なのでとても驚いた記憶があります。


 あとは、これも須藤さんが詳しく紹介していましたが、人材採用の重要性についても当時いろいろと話しましたよね。人事の業務とITの双方に精通したいわゆる「HRIS」の人材は、転職市場にもほとんどいないのが実情ですが、採用活動の強化に地道に取り組んだおかげで良い人材を確保することができました。


須藤氏: 当時はまだHRISに特化した人材の採用はあまり意識していなかったのですが、組織体制と採用プロセスの強化に取り組む過程でたまたま良い人に巡り合えました。


中野氏: 採用活動を強化する以前に、もともと全社戦略とそこから派生する部門戦略がしっかり定義できていたからこそ「今、足りない戦力」「採りたい人材像」が明確化できていて、その結果、採用もうまくいったのだと思います。

組織が未成熟な会社こそ採用には時間と手間をかけるべき

中野氏: 優れた人材は引く手あまたですから、「自社に来ることでその人にとってどんなメリットがあるのか」をきちんと提示できないと、良い人はなかなか採れないということも、当時よく話していましたね。あとカジュアル面接や体験入社も当時から行っていましたが、これはいわゆる「採用のミスマッチ」を避ける上で極めて効果的だと思います。社員が大勢いる企業ならいざ知らず、少数精鋭のスタートアップ企業で採用をミスってしまうと相当な痛手になりますから。

須藤氏: 実は体験入社は、それこそ創業当初からずっと行っていたんです。具体的には、普段の業務で実際に扱っているような業務課題を応募者の方に提示して、解決策を考えてもらった上で、その内容を弊社のメンバーと一緒にディスカッションしてもらいます。この業務課題の“お題”を考えるのが、結構大変なんですよね。応募者一人ひとりに適した内容や難易度を都度考えなければならないので、結構な工数を取られます。


中野氏: 私もかつてやったことがありますけど、結構、手間が掛かるんですよね。でも決して手を抜けない重要な業務ですから、こうした活動にマネジャーがより多くの工数を掛けられるよう、普段から組織体制と役割分担をきちんと整備しておくことが重要です。


 あとは、「強い人から採る」ということをプレゼンの中で強調されていましたが、これもとても大事ですよね。猫の手も借りたいほど忙しいからといって、本当に猫を連れてくると猫のお世話だけで手一杯になってしまいますから。私はこれを「猫カフェ店長問題」と呼んでいます。


 組織が既に成熟している会社ならジュニアレベルの人材を育成できる余裕もありますが、まだその段階にまで至っていない会社はやっぱり自律・自走できるシニアレベルの人材を優先して採用する必要がありますね。


須藤氏: ただ自分より強い人を採るためには、常に自分自身を磨き続けなくてはいけませんから、ハードルは決して低くないと思います。でもこれをやることで自分自身を鍛えることもできますし、あとは一人で抱え込むのではなく、役員・人事部門をはじめいろいろな人の協力を得ることも大事だと思います。地道で大変な仕事ですが、最終的には強い意志を持ってやり抜くことが何よりも重要なのではないでしょうか。

メンバー個々人の価値を高めることが結果的に組織の価値向上につながる

中野氏: 2022年からは和田さんが新たにkubellに加わって、CSE部のマネジャーを須藤さんから引き継いだわけですが、基本的には須藤さんの路線を引き継ぎながら慎重に少しずつ改革を進めていくやり方がいかにもベテランらしいなと感じました。


 血気盛んな新任マネジャーが着任早々、前任者のやり方を強引に変えてしまい、結果的に組織が崩壊するケースをしばしば耳にしますが、そういったことが全くなく、さすがに貫禄のある采配だと感じました。


和田氏: 着任したばかりのころは、とにかく「体制に隙がないな」と感じました。マネジメント職の求人では、得てして組織の立て直しやテコ入れの役割を期待されるものですが、kubellに関しては既に須藤さんが体制も仕組みもきっちり整備されていたので、「逆に困ったな」と思いましたね。


 ただ裏を返すと、これからさらなる事業成長を目指すに当たって、ちょっと柔軟性に欠けるところがあるとも感じたので、まずはその辺りから少しずつ改善していくことを心掛けました。

中野氏: まずCSE部の大きなテーマとして「スケール」と「モニタリング」の2つを掲げられたとのことでしたが、この辺りも一緒にいろいろディスカッションしましたよね。


 やはり急成長している会社では、組織やシステムにスケーラビリティが欠けていると事業成長の足を引っ張ってしまいますし、事業の今の状況が正確に把握できないと適切な手が打てませんから、モニタリングの機能も不可欠です。そしてこのモニタリングを実現するためには、やはり人事マスタの存在が欠かせないので、人事DBシステムの構築に踏み切ったということですね。


 あと和田さんのプレゼンテーションで興味深かったのが、マネジャーのミッションをきちんと定義してメンバーに示したという点です。メンバー一人ひとりの価値を高めることが、結果的に組織全体の価値を高めるとの考えから、部門のタスクに優先順位を付けて「価値のないタスクは自動化もしくは廃止する」という方針を打ち出されました。


和田氏: そうですね。私自身これまで転職回数が多く、あまり会社に依存するタイプではないこともあって、「チームのために」「会社のために」という考え方があまりしっくり来ないんですよね。


 そうではなくて、まずは自分自身の価値を高めることで、結果的にチームや会社のためにもなるというふうに考え方の方向性を変えるべきではないかと考えています。


中野氏: 私もまったく同感で、乱暴な言い方ですが「他所で要らない人間はうちでも要らない」ということなんですよね。なので、人材市場で価値を出せるためにメンバー一人ひとりが自身を磨くことが何よりも大切ですし、会社もそうした取り組みをサポートして方向性を示してあげることこそが本当の育成なのではないかと思います。

HRコア導入成功の秘訣は「適切なデータ構造のデザイン」にあり

中野氏: スケールとモニタリングを実現するための生産性の高いIT環境を整備するために、真っ先に着手されたのがいわゆる「SSoT(Single Source of Truth:信頼できる唯一の情報源)」としての人事マスタの構築でしたね。やっぱりすべてのデータや台帳の起点となるような人事マスタを整備して、これを基に経営の意思決定を行う仕組みを作ることが何より重要です。


 とはいえ、これは本当に「言うは易く行うは難し」で、実際にやってみるととにかく大変です。商品マスタや顧客マスタといった静的なマスタデータとは異なり、人事マスタは時系列で扱えないといけませんし、組織も頻繁に変更されますし、従業員の属性情報も大量に保持しなければいけません。


 これらの情報を戦略人事の実務で使えるように管理するためには、古典的なリレーショナルデータベースの発想では到底太刀打ちできないんですよね。そこで「HRコア」という考え方が出てくるのですが、残念ながら日本ではまだこの概念は十分に浸透しているとはいえません。


竹内氏: そうですね。ただしkubellさんのケースに限って言えば、弊社の「YESODディレクトリサービス」を導入される前から、既にスプレッドシートで人事情報を時系列で管理できる仕組みを確立されていたので、比較的スムーズにHRコアを導入できたと思います。このスプレッドシートのデータ構造を初めて拝見したときには、あまりにも完成度が高いので感動したことを覚えています。

中野氏: 須藤さんが開発エンジニア出身で、たとえスプレッドシートとはいえ、しっかりデータ構造を設計していたことが功を奏したわけですね。正直なところ小規模な会社であれば、データ構造さえきちんと設計されているのであれば、スプレッドシートでも全然問題ないと思います。逆に言えば、データ構造をきちんと設計できないような会社がいきなりHRコアを導入したとしても、恐らく実用に耐える人事マスタは構築できないでしょうね。

「全社課題型」と「部門主導型」のどちらでHRコアプロジェクトを進めるか

中野氏: ちなみに竹内さんのプレゼンテーションでは、人事マスタ構築プロジェクトの進め方として「全社課題型」と「部門主導型」の2つがあると紹介していました。どちらも一長一短があると思いますが、竹内さん個人としてはどちらがお勧めなんでしょうか?


竹内氏: 会社全体の戦略にきちんとアラインするという意味では、やはり全社課題型で進めるのがお勧めです。しかし、このやり方ではどうしてもプロジェクトが長期化しがちなので、全社課題型と部門主導型の中間的な進め方ができないものか今も頭をひねっているところです。


須藤氏: ちなみにkubellのケースで言えば、当初は情報システム部門がシステムアカウント管理の効率化を目的に取り組みを始めて、徐々に人事部門を巻き込んでいった、という経緯があるので、どちらかというと部門主導型だと思っています。


中野氏: いわゆる“Think Big, Act Small”という考え方で、最終的な「大きなゴール」をしっかり意識しつつも、まずは現実的な小さな目標を設定して動き始めるということですね。目指すべき頂上がイメージできていないまま山に登り始めると、富士山に登っているつもりがいつの間にかエベレストに登っていることに気付いて、でも今さら後戻りもできずに結局は遭難することになってしまいがちです。


 あと、これも竹内さんがプレゼンテーションで指摘していましたが、HRコア実現のためにはHRIS人材の存在がとても重要です。でも現実的には、そういう人材は人材市場にもなかなかいないんですよね。というか、大半の企業ではそもそもHRISの役職やロール自体が設けられていないので、当然ながらそれに対応できる人材もいないわけです。


 でもHRコアのような取り組みを本気でやろうと思ったら、コーポレート業務とITの双方に精通して両者の橋渡しができる人材が絶対必要なはずです。


竹内氏: そうですね。弊社ですらそういう人材はなかなか採用できていませんから、「我こそは」という方は大歓迎です。

人事マスタはどの範囲までの情報を網羅すべきなのか?

中野氏: では、視聴者の方々から寄せられた質問にお答えしていきたいと思います。


 「我が社では派遣社員や契約社員の情報は人事部で管理する一方で、協力会社からの出向者の情報は各部門ごとに管理しています。他方、情シスではユーザーアカウントをベースに全社の人事マスタを設けたいと考えています。一体人事マスタはどの範囲の情報まで網羅するのが適切なのでしょうか?」という質問をいただいています。


須藤氏: 「そもそも何のための人事マスタなのか?」という点を基準に考えるべきだと思います。弊社のケースで言えば、「システムアカウントの管理を行うため」の人事マスタだったので、正社員だけでなく業務委託の人たちの情報も当然含めています。


竹内氏: 人事部門が正社員の給与計算や労務管理を行うための人事システムは、今ではどの会社でも当然のように導入・運用しています。にもかかわらず、それとは別にあえて人事マスタを構築したいと考える最大の動機は、情シスが派遣社員や業務委託を含めてすべてのシステムアカウントを集中管理したいからです。従って、やはり派遣社員や業務委託までを含めた人事マスタデータベースを構築して、それらの情報を容易に登録・更新できるインタフェースを各部門に提供することを目指すべきだと思います。


中野氏: 「HRIS人材に求められる要件とはどのようなものでしょうか?」という質問もいただいています。


和田氏: システムの細かい話というよりは、人事業務全体のプロセスや、それぞれの業務の内容や意味をきちんと理解している人が適任だと思います。そういう勘所が分かっている人がいないと、せっかくシステムを開発しても使えないものが出来上がってしまったり、導入しても現場で使われないといったことが起こりがちです。


中野氏: そういう知識や人事業務の実務経験がある人でないと、現場の人ともうまくコミュニケーションが取れないんですよね。特に人事部門では機微な個人情報を多く扱っているだけに、そうやすやすと部外者に情報を開示するわけにはいきません。そうしたハードルを越えて現場と突っ込んだコミュニケーションを取るためには、やはり実務経験に裏打ちされた深い知識がどうしても必要になりますね。

執筆

吉村哲樹記事一覧

早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。その後、外資系ソフトウェアベンダーでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。

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ITmediaエンタープライズの担当編集長を経て独立。現在はエンタープライズITの変革者に伴走するメディア「Darsana」の編集長として、変革者へのインタビュー、イベント企画、コミュニティ運営を手掛けている。ITとビジネスをつなぐ役割を担っているCIO、IT部門長へのインタビュー多数。モットーは、「変化の時代に正しい選択をするのに役立つ情報を発信すること」

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