ビジネスの急激な拡張に組織やシステムが対応しきれず、経営に混乱を来たしてしまう——。そんな「エンタープライズの壁」を超えるためのITアーキテクチャを設計し、スケールに耐えうるシステムを構築しているのが、ビジネスチャット大手のChatwork株式会社だ。
2023年9月13日、このチャットワークの取り組みを紹介するAnityA・Darsana主催のイベント「『エンタープライズの壁』を越えるためのIT基盤と組織作りとは——システムがカオスになる前にすべきこと」が開催された。
本イベントの前半では、同社 コーポレート本部 CSE部の須藤裕嗣氏と冨田航氏がChatworkにおける人事マスタデータベース再構築の背景やその経緯などについて紹介。また、その過程で同社がHR Coreとして採用したSaaSサービス「YESODディレクトリサービス」について、開発提供元である株式会社イエソドの竹内伸次氏が説明を行った。
後半はこれらの内容を踏まえたAnityA 代表取締役の中野仁を交えたディスカッションと、本イベントの視聴者や参加者から寄せられた質問に登壇者が答えるQAセッションが行われた。
重要なのは「As Isからの積み上げ」ではなく「To Beからの逆算」で方針を立てること
中野: 須藤さんからコンサルティングのご相談をいただいたのが、2021年の12月のことでした。今思い返すと懐かしいですね。当時須藤さんとは、Chatwarkさんが現在置かれている状況と、将来目指すべき理想像、つまり「To Be」をしっかり言語化した上で、そこから逆算する形で「何を何のためにやるのか」を洗い出して、それらの優先順位を付けるという作業を根気よく続けていました。
須藤: 中野さんとの定例ミーティングを3カ月ほど続けて、そうしたディスカッションを重ねながら少しずつTo Beを整理していきましたね。とても濃い時間だったので、3カ月どころか半年、1年やっていたような感覚があります。
中野: 多くの会社では、このTo Beや「何のために?」という部分を重視せずに、逆に目の前にある現在の状況、つまり「As Is」から積み上げる形で課題を各個撃破しようとするんですよね。またエンジニアはどうしても「どういうツールを導入するか」「どういう技術を使うか」という「How」の部分から入りがちなので、結果的に戦略と施策に一貫性がなくなってしまうわけです。
須藤: 先ほどのプレゼンでも紹介しましたが、まず社内のステークホルダーを「IT」「コーポレート・ビジネス」「経営」の3層に分けて、それぞれの関心事が何で、それぞれのTo Beは何かという点を言語化するところから始めました。このあたりは、中野さんからミーティングのたびに出される宿題をこなす中でかなり鍛えられたと思います!
中野: その結果、全体方針として「スケール」と「モニタリング」をテーマにしましょうということを決めました。これは多くのベンチャー企業が事業の急成長に伴って共通して突き当たる壁のようなものなのですが、将来的に複数の事業を手掛けたり海外に進出したりすることを視野に入れて、スケールできる仕組みを早いうちから準備しておくことが大事です。またデータは最終的に経営判断において有効活用されることがゴールなので、そのためのモニタリングの仕組みの構築も目指していきましょうという方針を立てました。
須藤: 私自身は経営の経験がないので、経営が何を考えているかを推し量るのは当初は苦労しましたね。
中野: でもはじめのうちは分からないなりに懸命に言語化していくうちに、徐々に解像度が上がっていくんですよね。これはとても大変な作業でしたけど、始めてすぐ須藤さんがすごい勢いで言語化していったので、「私はいなくていいんじゃないか?」と思ったほどでした!
スキルだけでなくビジョンや戦略を理解してくれる人材を採用する
中野: こうして全体方針や設計・アーキテクチャを検討するとともに、何から手を付けて、どういう順番でやっていくかという優先順位も決めましたね。これも企業ごとの事情やそれぞれのタイミングによって変わってくるんですけど、Chatworkさんの場合はやはり人事マスタの整備が最も優先順位が高いということになりました。こうした全体方針や戦略というのは、須藤さん以外の方々にはどう伝えたんですか?
須藤: 社内の全部門にこの方針を伝えましたし、採用の面接時にも「こういう戦略で進めていきます」ということは必ず伝えていました。そうすれば、方針や戦略を理解してくれた人に入ってきてもらえますから、その後の仕事の進め方もスムーズに運びます。
中野: これはとても重要なことですよね。人を新たに採用するときは、得てしてその人のスキルばかりに目が行きがちですが、ビジョンや方針を理解してもらえない状態で入ってきても、後になって価値観や仕事の進め方に納得してもらえずに揉めるケースがとても多いんです。ベンチャー企業では「とにかく人が足りないからまずは頭数を揃えましょう」という採用方針をとるところも多いのですが、これは絶対に後で揉めることになるのでお勧めしません!
冨田: 私は2023年1月にChatworkにジョインしたのですが、やはり須藤から全体の方針や戦略、そして現在の状況などについて詳しく説明していただいて、その内容にとても共感できたので入社を決めました。結果、現在とてもやりがいを感じていますので、その部分はとても大事だと思いますね。
中野: あとは、当初須藤さんの方ではWorkdayやServicenowといったグローバルのデファクト構成を考えていましたけど、それも現在のChatworkさんの状況とTo Beをきちんと言語化した結果、「現時点ではToo Much」という判断を下すことができました。
須藤: そうですね。中野さんからそうしたアドバイスをいただいたことも大きかったですし、あとはそうしたシステムを実際に導入している会社さんから直接お話を聞ける機会をいただいて、その結果も加味した結果「現時点では導入すべきではない」という結論に至りました。このように客観的な判断材料をいただけた点も、とてもありがたかったですね。
データをベンダーの手に委ねる「データロックイン」を避けるために
中野: 人事データベースに関しては、もともとスプレッドシートで管理されていたんですよね。でもこれを初めて見たとき、須藤さんが関わっているからなんでしょうけど、カラム構造などがとてもよく考えて作られているのが印象的でした。個人的にはスプレッドシート管理が必ずしも悪いとは思っていなくて、データ構造の設計やデータのクオリティを担保する運用がしっかりしていればスプレッドシートもありだと思っています。この点、Chatworkさんはしっかり設計・運用されていて、「ああ、ちゃんとしている会社なんだな」と当時思った記憶があります。
ただ同時に「データがちゃんとしている分、運用が大変だよね」という話もした記憶もあります。過去の履歴データの扱いだったり、あとは手作業のミスに起因するさまざまな問題がやはりついて回るので、これを基にあらためて人事マスタデータベースを構築しようという話につながっていくわけです。
須藤: 当初はベンダーが提供する製品に仕様に乗っかって、アプリケーションのデータベースに人事データを蓄積すればいいのかなと考えていましたが、中野さんからいろいろお話をうかがう中で、やはりベンダーによるデータのロックイン、すなわち「データロックイン」を回避することの重要性を認識するようになりました。
中野: データは会社にとって重要な資産であって、かつアプリケーションより確実に長生きするので、これをベンダーの手に委ねてロックインされてしまうのはやはり得策ではありません。そこで提案したのが、アプリケーションとは切り離したところでデータを自社で管理できる「中間データベース」「データハブ」のアーキテクチャです。
須藤: AnityAさんの過去のイベントで紹介されていた楽天さんの事例が、まさにモデルケースになりました。
中野: 楽天さんの事例は、もともと中間データベースがあったのでうまくいったというケースなのですが、やはり数万人のグローバル企業でああいう事例があることはとてもインパクトがありますね。
ちなみに私はよくエンタープライズSaaSをお勧めすることが多いのですが、その理由はAPIを介してデータを引っこ抜いて中間データベースを構築・運用できるからなんですね。きちんとAPIを備えてこれができる製品が、現状ではエンタープライズSaaSしかないのでこれを使わざるを得ないというのが実際のところです。
ただし後ほどあらためて紹介しますが、今回のケースではYESODディレクトリサービスという、リーズナブルでありながらAPIできちんと連携できる製品と出会えたことがやはり大きかったと思います。
HR Core機能の内製は想像する以上にハードルが高い
中野: 当初はHR Coreの部分も内製しようという話も出てたんですよね。でも実際に作るとなるとめちゃくちゃ大変ですから、結局SaaSを使うことになりました。
竹内: そうですね。実際に製品を開発している私たちの立場から見ると、この機能を内製するというのはあり得ないというのが本音です。
須藤: 当初はノーコードツールを使って内製するというようなことも言っていましたが、今思うとやはり内製せずに正解でした。ただこれも、YESODディレクトリサービスという製品が運よく見付かったからですね。それ以外には、ふさわしい製品はほぼ見つかりませんでしたから。
中野: HR Coreや人事マスタの分野では、ちゃんとしたSaaSはほぼ存在しないのが実情ですね。あったとしても大規模エンタープライズ向けで、レガシーなものが大半ですから。でも須藤さんの方であらかじめ課題をきちんと洗い出して、HR Coreに求める要件を明確化していたので、製品選定もスムーズに運びました。実際には選定候補に残ったのはYESODさん含め2社だけで、しかももう1社はサポート体制が心許ないのですぐYESODさんに決まりました。
竹内: 私たちが掲げる「人・組織マスタ」のコンセプトに共感いただける企業さんは少ないのが実情なのですが、須藤さんと初めてお会いしたときに目をキラキラさせて話が盛り上がったことをよく覚えています。それにChatworkさんの場合は、もともとのスプレッドシートの人事DBの構造がきちんと設計されていて、過去の時系列データも含めてYESODディレクトリサービスのデータ構造に極めて近かったので、これならスムーズに移行できると思いました。
中野: ただYESODさんの本音としては、わざわざデータハブを連携してデータを管理せずとも、YESODディレクトリサービスで一元的にデータを管理して他のサービスも直接つないでくれればいいのにという思いもあるのではないでしょうか?
竹内: それはその通りですね!
中野: このあたりはケースバイケースですね。今回はChatworkさんの戦略に即してデータハブを設けて疎結合アーキテクチャを採用しましたが、リソースの関係上データハブを内製できない会社や、将来のスケールを考慮しなくてもいいケースではYESODディレクトリサービスのAPIと周辺サービスを直接つなぐアーキテクチャでも全く問題ないと思います。
HR IS人材を社内に確保しておくことの重要性
中野: あと今回のケースで印象的だったのは、Chatworkさんのような規模の会社で、冨田さんのようなHR IS人材をきちんとアサインしているということですね。
冨田: 私自身も今回のように、人事マスタを根本的に見直すプロジェクトをこの規模の会社でできたというのは、とても貴重な体験をさせてもらったと思っています。
須藤: 今回の取り組みの体制を整備するに当たっては、とにかく「HRとファイナンスの専門家が今後絶対に必要です」と進言した結果、HR ISの冨田さんとファイナンスの専門家1人を採用することができました。
中野: せっかくいい仕組みを作っても、そういう業務とITの両方が分かっているプロフェッショナルな人材がいないと運用が回りませんからね。正直、身の丈に合わないシステムを導入して高額なライセンス費用を支払うぐらいなら、先に人材にお金をかけた方が費用対効果はいいですね。
竹内: YESODディレクトリサービスも、やっぱり各種人事データのつながりについて理解できる人がいるとよりスムーズに運用できると思います。
中野: ですから人事部門の人も、もうちょっとデータ構造などを意識しながら仕事をすると、自身の価値をより高められると思います。単に給与計算や採用業務がちゃんと回せるだけでは、付加価値はなかなか出せませんからね。経営の目には、単に人件費のコストパフォーマンスが悪い人材としか映りません。
竹内: そうですね。でも人事マスタデータベースの価値というのは、企業の経営者にはなかなか刺さらないんですよね。ですから須藤さんが先ほどのプレゼンで示したように、将来的に経営に直接貢献できるシナリオをきちんと示すことが大事なんだとあらためて思いました。
須藤: それにシステムによる業務の自動化や効率化を図っていく上でも、やはり人事マスタの整備は不可欠なんですよね。確かに経営にとってこのあたりの領域は意識しにくい部分ではありますが、その重要性をもっと啓蒙していく必要はあると感じています。
日本企業に特有の「兼務」をどのように管理するか
中野: では、参加者や視聴者の方々から寄せられた質問に答えていきたいと思います。「日本企業にありがちな“兼務”はどのような設定をしていますか」という質問をいただいています。
冨田: HRシステムを管理する際の兼務の扱いは、確かにたびたび問題になりますね。兼務と一口で言っても、同じ会社の中での兼務だけではなくて、親会社と子会社の役職を兼務していたり、中には3社にまたがった兼務などのケースもあったりします。
竹内: 欧米では日本とは違い、ジョブディスクリプション文化でもともと兼務という概念がないので、外資系パッケージ製品やSaaSで兼務を管理するのは難しいという話はよく聞きますね。でもYESODディレクトリサービスでは、従業員ごとにその組織に対する「関与度合い」を表す属性を設けていますから、複数の役職を兼務している場合でもどれが主務でどれが兼務かを区別できるようになっています。
中野: 次に「過去に大規模開発を行い、その後継ぎ足しで改修されてきたデータ設計などの負の遺産への立ち向かい方をうかがいたいです」という質問が寄せられています。
竹内: これは長期的に取り組んでいくしかないのかもしれませんね。継ぎ足し継ぎ足しで改修されてきた分、再設計や移行にもどうしても時間がかかりますから。実際には新システムへの移行に1年かけるようなケースもざらにありますし。
中野: ただそこまでやるとなると、実際には投資を回収できるかどうか極めて疑わしいですよね。なのでいっそのこと過去データの移行を諦めてしまうというのも1つの手だと思います。過去データは新システムに移行せずに別のデータベースに残しておいて、いざというときに参照できるようにしておくという落としどころも検討してみる価値はあるのではないでしょうか。
次の質問は「現状調査や要件定義のところでシステム構成や組織の構成、人事制度の構成を整理できて抽象化、モデル化、明文化できる人材はどこにいたのでしょうか? 人事・総務部にいたのか、それともシステム部門がヒアリングを行ったのでしょうか」というものです。
須藤: 冨田が入ってくる前は、私自身が労務部門や人事部門と直接連携して進めていたので、実際には私が担当していました。冨田を採用した後は、冨田がITの部分も含めて担当していました。
中野: ですので、やっぱりこのあたりの話に詳しい人材やHR IS人材がいないと、こうした取り組みを進めるのは難しいですね。やはり製品や技術の前に、まずは人材に投資することが大事だということだと思います。